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>貴方は、そのお知り合いと好意にしてらっしゃるようですが、お知り合いから頼まれてしているんですか?
相互扶助と倫理について
内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/
内田樹
相互扶助と倫理について http://blog.tatsuru.com/2012/06/08_1629.php
片山さつき議員による生活保護の不正受給に対する一連の批判的なコメントが気になる。
「相互扶助」ということの本義に照らして、この発言のトーンにつよい違和感を持つのである。以下は朝日新聞の報道から。
人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんの母親が生活保護を受けていたことが、週刊誌報道をきっかけに明らかになった。4月12日発売の週刊誌「女性セブン」が最初に匿名で報じた。「推定年収5千万円」の売れっ子芸人なのに母親への扶養義務を果たさないのは問題だ、と指摘した。翌週にはインターネットのサイトが河本さんの名前を報じ、今月2日に自民党の片山さつき参院議員が「不正受給の疑いがある」と厚生労働省に調査を求めたことをブログで明かすと、他の週刊誌や夕刊紙が相次いで取り上げた。
報道を受け、所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシーは16日、コメントを発表。河本さんの母親が生活保護を受けていたことを認めたが、「違法行為はない」とした。 同社によると、母親が生活保護を受け始めたのは河本さんの無名時代の12年ほど前から。
同社の担当者は朝日新聞の取材に「収入が年によって増減し、将来も安定的に援助できるか見通しが難しかった事情もあるが、認識が甘かった」と話す。
親族間の扶養義務は、民法730条に次のように定められている。
「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」
自治体は生活保護の申請を受けると、扶養義務のある親族に扶養の可否と年収を尋ね、受給開始後も毎年調べる。しかし、調査に強制力はなく、回答の真偽を検証する手立てもない。
自治体の担当者からは、調査権限の強化を求める声が上がっている。
「親族に尋ねても『余裕がない』と断られるケースが大半だ」
「これまでは『親に生活保護を受けさせるのは恥』の意識があったが、『もらわないと損』の感覚が広がれば、法改正の必要があるかもしれない」
生活保護法では、親族から援助を期待できるかどうかは、生活保護を受ける際の要件ではない。高収入の子供がいるからといって、不正、違法となるわけではない。
だが、扶養義務の調査を厳正化すると、生活保護を受けるべき人たちが申請を控える事態を招きかねない。
専門家は「扶養は法律で強制するのでなく、当事者の話し合いで解決するよう導くのが本来の行政のあり方だ。生活保護を減らすには、就労支援など、先にすべきことがある」と話す。(朝日新聞5月25日による)
複雑な問題である。
It’s complicated というのは「簡単には説明できない事態」について、相手に判断の保留を求めるときのシグナルである。簡単に理非正邪の判定ができないことが私たちの社会にはある。
そういうときには、「とりあえず座って、お茶でも一杯」してから、長い話を始めるというのがことの手順である。
複雑な問題には、複雑な解決法しかない。
「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片付けた」と言い張る人に似ている。
そのときは一瞬だけ部屋は片づいたように見える。だが、そのままにしておけば、押し入れの中はやがて手の付けられないカオスになる。
生活保護の問題は「相互扶助」という複雑な問題にかかわりがある。
複雑な問題に簡単な解決法は存在しない。
弱者の処遇についての考え方は、単純化すれば二つしかない。
(1)社会的弱者は公的な制度が全面的にこれを扶助する。
(2)社会的能力の多寡は本人の自己責任であるので、公的制度がこれを扶助する理由はない。
「大きな政府」論と「小さな政府」論も、「コミュニズム」と「リバタリアニズム」の対比も論理的には同型である。
私たちが経験的に言えることは、「落としどころはその中間あたり」ということである。
ある程度公的な支援を行い、ある程度は自己努力に頼る。そのさじ加減はときどきの政治状況や景況や、何を以て「弱者」と認定するかについての社会的合意にかかわる。
社会的弱者を支援する事業を行政が専管するというのは、いいことのようだが、長期的には問題が多い。
べつに金がかかりすぎるとか、そういう野暮な話ではない。
もし、政府が弱者を実効的に救済するシステムが機能していれば、私人は弱者救済の義務を免ぜられるということである。
目の前に、飢え、渇き、寒さに震え、寝る場もない人がいても、「行政で何とかしてやれよ」と電話一本すれば済む。たいへんけっこうな社会のように思えるだろう。だが、そのような社会に住む人々はいずれ「目の前で苦しんでいる人を救うのは、他ならぬ私の仕事だ」という「過剰な有責感」を感じなくなる。
これは人間として危険な徴候である。
「世界を一気に慈愛深いものにしようとする」企ての挫折をレヴィナスはスターリン主義のうちに見た。
「スターリン主義とはつまり、個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけるという考え方のことなのです。慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが、そんなものはなくてもすませられるという考え方なのです。そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実にすることは可能であるとする考え方なのです。スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが、管理の泥沼で溺れてしまいました。」(エマニュエル・レヴィナス、『暴力と聖性』、国文社、1991年、p.128)
この世の中を少しでも手触りの暖かい、住みやすい場所にしようと思ったら、「永続的に、法律によって」それを確実にできると考えない方がいい。
レヴィナスはそう教えている。
慈愛の実践のためには制度だけでなく、「個人的創意」の参与が不可欠である。
「正義がさらに義であるように」「社会的公正がさらに公正であるように」するためには、生身の個人が、自分の身体をねじこむようにして、弱者支援の企て関与することが必要である。
けれども、「個人的創意」ばかりを強調すると、今度は「公的制度による支援は無用」というリバタリアンのロジックに歯止めをかけることができなくなる。
苦しむものは勝手に苦しむがいい。それを見ているのが「つらい」という人間は勝手に身銭を切って、支援するがいい。オレは知らんよ。
今回、一部の政治家たちと一部のネット世論が求めている「生活受給条件の厳正化」は、ある意味でリバタリアン的である。
親族による扶養を強調しているが、その趣旨は「相互扶助」ではない。
問題になっているのは、「いかにして、孤立した弱者を救うか」ではなく、「身内のことは、身内で始末しろ(他に迷惑をかけるな)」という、弱者(とそれを親族内に含むものたち)の公的制度からの「切り離し」である。
なぜ「親族間の扶け合い」をうるさく言い立てる保守派が、その舌の根も乾かぬうちに「公的制度にすがりつくな」というリバタリアン的主張をなすことができるのか。
これは矛盾しないのか?
もし「相互扶助」ということの大切さを言いたいのなら、公的制度を介しての「相互扶助」の必要も指摘すべきではないのか。
でも、彼らは「親族間の扶け合い」は人間として当然のこととして求めるが、公的支援は「本来ならやらずに済ませたいこと」という表情をあらわにする。
というのは、リバタリアンにとって、「公」というのは国家や地方自治体という非人格的な行政組織のことであって、それ以外は全部「私」に分類されるからである。
そして、親族は「私」なのである。どれほどの規模でも、所詮は「私」なのである。
だから、「親族間で」弱者の面倒を見ろと言うのは、要するに「自助しろ」と言っているのである。
彼らは「相互扶助」ということそれ自体に「価値がある」とは思っていない。
この世界は本質的には無数の「私」たちの競争と奪い合いだと思っている。
弱者への支援は「ゴミ収集」とか「屎尿処理」と同じような「面倒だけれど、やらなければいけない仕事」だと思っている。個人の責任に任せてしまうと、かえって市民一人あたりの社会的コストがかさむから、やむなく行政が引き受けている仕事だと思っている。
だから、ぎりぎりまで軽減したい。理想的にはゼロにしたい。
だから、「誰が『公』の負担を増やしているのだ?」という問いに強迫的につきまとわれてしまう。
生活保護の不正受給について論じたあと、ブログでは片山議員は引き続き外国人の国保の納入率が低いことを難じている。
いずれの場合でも、社会保障制度の「フリーライダー」が標的にされている。
社会的公正の達成というのが建前だが、そこに一貫するのは「誰が国富を収奪しているのか?」というなじみ深い「ゼノフォーブ」(xenophobe)の定型的思考である。
ゼノフォーブは「外国人嫌い」と訳されるが、べつにそれは彼らが「同国人好き」であることを意味しない。
国籍にかかわりなく、彼の自己利益の確保を妨害するすべての他者は一括して「外国人」と呼ばれる(ネット右翼が批判者を誰かれ構わず「在日」と呼ぶのと同じメカニズムである)。
彼以外のすべての他者は限られた資源を奪い合う「潜在的な敵」とみなされている。
敵性のつよいものは「外国人」と呼ばれ、敵性の弱いもの(自己利益増大のために利用価値のある他者)は暫定的に「同国人」に認定される。
あくまで「暫定的」なので、自己都合により、「同国人」たちも一夜にして「外国人」や「非国民」に分類変更される。
それだけのことである。
片山議員の発言は、彼女の心情を吐露したものというより、選挙目当ての「煽り」という感じがする。
その政治感覚は決して鈍くないのだと思う。
たしかに今の日本に「ゼノフォーブ」的な気分が瀰漫しており、「外国人叩き」をする政治家はしばらくは高いポピュラリティを獲得する可能性が高い。
おそらく、片山議員が「成功」すれば、このあと、彼女の真似をして、「フリーライダー叩き」にわらわらと政治家たちが参入してくるだろう。
先ほどの書いたように、公的制度が至れり尽くせりの弱者支援をすべきだという思想は個人の責務を免ずることで社会そのものを「非倫理的」なものに転じるリスクを抱えていると私は考えている。
けれども、すべての人間は資源を奪い合う競争に参加しているのだから、自分の取り分は自力で確保しろというリバタリアン的な考え方も同じように「非倫理的」である。
私はこのふたつの非倫理を退ける。
集団成員の相互扶助の問題は、倫理問題である。
倫理というのは「同胞とともにあるための理法」のことである。
定型があるわけでもないし、文字に書かれているわけでもない。
同胞たちと穏やかに共生し、集団がベストパフォーマンスを発揮するためには、何をしたらよいのかという問いへの答えは状況的入力が変わるごとに変わるからである。
そのゆらぎに耐えることのできる人間を「倫理的」な人間と呼びたいと私は思う。
日時: 2012年06月08日 16:29
改憲案の「新しさ」 (3)
内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/
内田樹
改憲案の「新しさ」 (3)
http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_0746.php
そういう文脈に置いてみると、九条の改定の意図がはじめてはっきりと了解できる。
改憲案はあきらかに戦争に巻き込まれるリスクを高めることをめざしている。平和憲法下で日本は68年間、九条二項のおかげで戦争にコミットすることを回避できていた。それを廃するというのは、「戦争をしたい」という明確な意思表示に他ならない。
安倍自民党と改憲で共同歩調をとる日本維新の会は、現行憲法をはっきり「占領憲法」と規定し、「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」とした。
感情的な措辞だが、「孤立と軽蔑」というのをいったいどのような事実について述べているのかが私にはわからない。もし、北方領土や中国の領海侵犯や北朝鮮の恫喝について言っているのだとしたら、これらの問題において日本は別に国際社会では孤立していないし、すぐに軍事的行動をとらないことについて軽蔑されてもいない。北朝鮮の軍事的挑発に耐えているという点で言えば、韓国とアメリカの方が日本以上だと思うが、そのせいで米韓は国際社会で「孤立」しており、「軽蔑」されていると言う人に私は会ったことがない。
同時に「絶対平和という非現実的な共同幻想」という言葉がどういう現実を指示しているのかもわからない。「絶対平和」などという文言はそもそも日本国憲法のどこにもない。「日本国民は、恒久の平和を念願し」という言葉はあるが、「念願」している以上、それが非現実であることは誰にでも分かっていることである(すでに現実化している事態を「念願」するものはいない)。戦後の歴代政府の憲法解釈も憲法学も国連も、自衛隊と個別的自衛権を違憲として否定してはいない。「非武装中立」を訴えた政治勢力もかつては存在したが、今はほとんど存在感を持っていない。「絶対平和という非現実な共同幻想」のせいで、日本がどのような損害を蒙っているのか、それを具体的に列挙してもらわなければ話が見えない。
まさか今さら「湾岸戦争のとき世界の笑いものになった」というような定型文を持ち出すわけではないだろうが、もしかするとそれかもしれないので、一言記しておくが、湾岸戦争のとき日本が世界の笑いものになったのは、日本が巨額の戦費を供出したにもかかわらず当事国から感謝されなかったからである。多国籍軍の支援を受けたクウェート政府は戦争終了後に、支援各国に感謝決議を出したが、日本の名はそこになかった。しかし、その理由は「国際社会の笑いもの」論者たちが言うように「金しか出さなかった」からではない。日本が供出した当初援助額1兆2,000 億円のうちクウェートに渡ったのは6億3千万円で、あとは全部アメリカが持っていったからである。仮に国際社会がほんとうに日本を笑ったのだとしたら、それは、「国際貢献」という名分でアメリカにいいようにされた日本の外交的愚鈍を笑ったのである。
改憲派のトラウマの起源が湾岸戦争にあるのだとしたら、彼らの悲願はアメリカのするすべての戦争へ同盟国としてフルエントリーすることであろう。そのために戦争をすることへの法制上・国民感情上のハードルが低い国に国を変えたいと彼らは願っている。
現行憲法の下で、世界史上例外的な平和と繁栄を享受してきた国が、あえて改憲して、アメリカにとって「使い勝手のいい」軍事的属国になろうと願うさまを国際社会は「狂気の沙汰」と見なすであろう。
私に反論するのはまことに簡単である。「日本が改憲して『戦争のできる国』になれば、わが国はこれまで侮蔑してきた日本を尊敬し、これまで遠ざけてきた日本と連帯するだろう」と誓言する国をひとつでもいいから「国際社会」から見つけ出して連れてきてくれれば足りる。そのときはじめて現行憲法が「孤立と軽蔑」の原因であることが証明される。
それでもこの妄想的な九条廃絶論にもひとつの条理は貫いている。それは「戦争のできる国」になることは、そうでない場合よりも国民国家の解体が加速するということであり、改憲論者はそれを直感し、それを望ましいことだと思っている。
「戦争ができる国」と「戦争ができない国」のどちらが戦乱に巻き込まれるリスクが多いかは足し算ができれば小学生でもわかる。「戦争ができない国」が戦争に巻き込まれるのは「外国からの侵略」の場合だけだが、「戦争ができる国」はそれに「外国への侵略」が戦争機会として加算される。
「戦争ができるふつうの国」と「戦争ができない変わった国」のどちらに生き残るチャンスが高いか、これも考えればすぐにわかる。「私がいなくなっても私の代わりはいくらもいる」という場合と、「私がいなくなると『私のようなもの』は世界から消えてしまう」という場合では、圧倒的に後者の方が「生き延びる意欲」は高いからである。
だから、国民国家の最優先課題が「国民国家として生き延びること」であるなら、その国は「できるだけ戦争をしない国」であること、「できるだけユニークな国」であることを生存戦略として選択するはずである。
だが、安倍自民党はそのような選択を拒んだ。改憲案は「他と同じような」、「戦争を簡単に始められる国」になることをめざしている。それは国民国家として生き延びることがもはや彼らにとっての最優先課題ではなくなっているということを意味している。漫然と馬齢を重ねるよりはむしろ矢玉の飛び交う修羅場に身を置いてみたい、自分たちにどれほどのことができるのか、それを満天下に知らしめてやりたい。そんなパセティックな想像の方が彼らを高揚させてくれるのである。でも、その高揚感は「国民国家が解体するリスク」を賭けのテーブルに置いたことの代償として手に入れたものなのである。「今、ここ」における刹那的な亢奮や愉悦と「国家百年の存続」はトレードオフできるものではと私たちは考えるが、それは私たちがもう「時代遅れ」な人間になったことを表わしている。国民国家のような機動性の低い(というか「機動性のない」)システムはもう不要なのである。グローバリストが戦争を好むのは、彼らが例外的に暴力的であったり非人道的であったりするからではなく(そういう場合もあるだろうが)戦争をすればするほど国民国家や領域国家という機動性のない擬制の有害性や退嬰性が際立つからである。安倍自民党は(本人たちには自覚がないが)グローバリストの政党である。彼らが「はやく戦争ができるようになりたい」と願っているのは、国威の発揚や国益の増大が目的だからではない。戦争機会が増大すればするほど、国民国家の解体が早まるからである。惰性的な国民国家の諸制度が溶解したとき、そこには彼らが夢見る「機動性の高い個体」たちからなる少数集団が圧倒的多数の「機動性の低い個体」を政治的・経済的・文化的に支配する格差社会が出現する。この格差社会では機動性が最大の人間的価値であるから、支配層といえども固定的・安定的であることは許されない。一代にして巨富を積み、栄耀栄華をきわめたものが、一朝あけるとホームレスに転落するめまぐるしいジェットコースター的な出世と降位。それが彼らの夢見るウルトラ・モダン社会のとりあえずの素描である。
改憲案がまず96条を標的にすることの理由もここから知れる。改憲派が改定の困難な「硬性憲法」を法律と同じように簡単に改廃できる「軟性憲法」に変更したいと願うのは、言い換えれば、憲法が「国のあるべきかたち」を恒久的に定めることそれ自体が許しがたいと思っているからである。「国のあるべきかたち」はそのつどの統治者や市場の都合でどんどん変えればよい。改憲派はそう考えている。
安倍自民党のグローバリスト的な改憲案によって、基本的人権においても、社会福祉においても、雇用の安定の点でも、あきらかに不利を蒙るはずの労働者階層のうちに改憲の熱心な支持者がいる理由もそこから理解できる。とりあえずこの改憲案は「何一つ安定したものがなく、あらゆる価値が乱高下し、システムがめまぐるしく変化する社会」の到来を約束しているからである。自分たちがさらに階層下降するリスクを代償にしても、他人が没落するスペクタクルを眺める権利を手に入れたいと願う人々の陰惨な欲望に改憲運動は心理的な基礎を置いている。
自民党の改憲案は今世界で起きている地殻変動に適応しようとするものである。その点でたぶん起草者たちは主観的には「リアリスト」でいるつもりなのだろう。けれども、現行憲法が国民国家の「理想」を掲げていたことを「非現実的」として退けたこの改憲案にはもうめざすべき理想がない。誰かが作り出した状況に適応し続けること、現状を追認し続けること、自分からはいかなるかたちであれ世界標準を提示しないこと、つまり永遠に「後手に回る」ことをこの改憲案は謳っている。歴史上、さまざまな憲法案が起草されたはずだが、「現実的であること」(つまり、「いかなる理想も持たないこと」)を国是に掲げようとする案はこれがはじめてだろう。
日時: 2013年05月08日 07:46
改憲案の「新しさ」 (1) http://blogs.yahoo.co.jp/tkkhkkdmk/32074946.html
改憲案の「新しさ」 (2) http://blogs.yahoo.co.jp/tkkhkkdmk/32074988.html
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改憲案の「新しさ」 (2)
内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/
内田樹
改憲案の「新しさ」 (2)
http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_0746.php
改憲案はこの「弱い日本人」についての「どうやって強者に奉仕するのか」を定めた命令である。
人権の尊重を求めず、資源分配に口出しせず、医療や教育の経費は自己負担し、社会福祉には頼らず、劣悪な雇用条件にも耐え、上位者の?荐使に従い、一旦緩急あれば義勇公に報じることを厭わないような人間、それが「弱い日本人」の「強い日本人」に対する奉仕の構えである。これが安倍自民党が改憲を通じて日本国民に飲み込ませようとしている「新しいルール」である。
少数の上位者に権力・財貨・威信・情報・文化資本が排他的に蓄積される体制を「好ましい」とする発想そのものについて安倍自民党の考え方は旧来の国民国家の支配層のそれと選ぶところがない。だが、はっきり変わった点がある。それは「弱い同胞」を扶養・支援する「無駄なコスト」を最少化し、「すでに優位にあるもの」がより有利になるように社会的資源を傾斜配分することを確信犯的にめざしているということである。
自民党の改憲案を「復古」とみなす護憲派の人たちがいるが、それは違うと私は思う。この改憲案は「新しい」。それはTPPによる貿易障壁の廃絶、英語の準公用語化、解雇条件の緩和などの一連の安倍自民党の政策と平仄が合っている。
一言で言えば、改憲を「旗艦」とする自民党政策のねらいは社会の「機動化」(mobilization)である。国民の政治的統合とか、国富の増大とか、国民文化の洗練とかいう、聞き飽きた種類の惰性的な国家目標をもう掲げていない。改憲の目標は「強い日本人」たちのそのつどの要請に従って即時に自在に改変できるような「可塑的で流動的な国家システム」の構築である(変幻自在な国家システムについて「構築」という語はあまりに不適当だが)。
国家システムを「基礎づける」とか「うち固める」とかをめざした政治運動はこれまでも左右を問わず存在したが、国家システムを「機動化する」、「ゲル化する」、「不定形化する」ことによって、個別グローバル企業のそのつどの利益追求に迅速に対応できる「国づくり」(というよりはむしろ「国こわし」)をめざした政治運動はたぶん政治史上はじめて出現したものである。そして、安倍自民党の改憲案の起草者たちは、彼らが実は政治史上画期的な文言を書き連ねていたことに気づいていない。
予備的考察ばかりで紙数が尽きかけているが、改憲草案のうち、典型的に「国こわし」の志向が露出している箇所をいくつか示しておきたい。
一つは九条「平和主義」と九条二項「国防軍」である。
現行憲法の平和主義を放棄して、「したいときにいつでも戦争ができる国」に衣替えすることをめざしていることは改憲派の悲願であった。現行憲法下でも、自衛力の保持と個別的自衛権の発動は主権国家としては当然の権利であると国民の大多数は考えている。だが、改憲派は「それでは足りない」と言う。アメリカの指揮で、もっと頻繁に戦争に参加するチャンスに恵まれたいと考えているからである。
国民を危険にさらし、国富を蕩尽し、国際社会に有形無形の敵をつくり、高い確率で国内でのテロリズムを招き寄せるような政策が68年の平和と繁栄を基礎づけた平和憲法よりも「望ましい」と判断する根拠はなにか。
改憲派はそれを「国際社会から侮られてきた」屈辱の経験によって説明する。「戦争ができる国」になれば、このいわれなき侮りはかき消え、国際社会からは深い敬意が示されるだろうと予測しているようだが、これまで日本が軍事的コミットメントをためらうことを不満に思い、しばしば侮言を浴びせてきたのは「国際社会」ではなく、端的にアメリカである。ヨーロッパにもアジアにも、日本の戦争へのコミットメントが自由化することを歓迎する国はひとつとして存在しない。改憲派が仮想敵国とみなしている中国や北朝鮮はまさに平和憲法の「おかげで」軍事的反撃のリスクなしに日本を挑発できているわけで、九条二項はいわば彼らの「命綱」である。日本がそれを廃絶したときに彼らが日本に抱く不信と疑惑がどれほどのものか。改憲派はそれも含めて九条二項の廃絶が「諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」ことだと考えているようだが、私にはその理路がまったく理解できない。「アメリカとの友好関係を増進し、アメリカの平和と繁栄に貢献する」ことを日本の存在理由とするというのが改憲の趣旨であるというならよくわかるが。
もう一つは13条。現行憲法の13条はこういう文言である。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
自民党改憲案はこうだ。「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大に尊重されなければならない。」
自民党案は「公共の福祉」というわかりにくい語を「公益及び公の秩序」というわかりやすい語に置き換えた。
「公共の福祉」は基本的人権を制約することのできる唯一の法的根拠であるから、それが「何を」意味するのかは憲法学上の最大の問題であり、現にいまだ一意的な定義を得ていない。
「公共の福祉」の語源は古くキケロに遡る。「民の安寧は最高の法たるべし(salus populi suprema lex esto)」。
salus populiを英語はpublic welfareと訳し、日本語は「公共の福祉」と訳した。あらゆる法治国家において、すべての法律・制度・政策の適否はそれが「民の安寧」に資するかどうか、それを基準に判定されねばならない。これは統治について久しく万国において受け容れられてきた法理である。
だが、ラテン語salusは「健康、幸運、無事、安全、生存、救助、救済」など深く幅の広い含意を有している。「民の安寧」salus populi は「至高の法」であるが、それが要求するものはあまりに多い。それゆえ、自民党改憲案はこれを「公益及び公的秩序」に縮減した。「公益及び公的秩序」はたしかに「民の安寧」の一部である。だが、全部ではない。統治者が晴れやかに「公益及び公的秩序」は保たれたと宣している当の国で、民の健康が損なわれ、民の安全が失われ、民の生存が脅かされている例を私たちは歴史上無数に挙げることができる。だが、自民党案はあえて「民の安寧」を廃し、「至高の法」の座を「公益及び公の秩序」という、統治者がそのつどの自己の都合にあわせて定義を変更できるものに譲り渡した。
先進国の民主主義国家において、自由な市民たちが、強権によらず、自らの意志で、基本的人権の制約の強化と「民の安寧」の語義の矮小化に同意したことは歴史に前例がない。歴史上前例のないことをあまり気負いなくできるということは、この改憲案の起草者たちが「国家」にも「市民社会」にももはやほとんど興味を失っていることを意味している。
「民の健康や無事や安全」を配慮していたら、行政制度のスリム化が進まない。医療や教育や社会保障や環境保全に貴重な国家資源を投じていたら、企業の収益が減殺する。グローバル企業が公害規制の緩和や教育の市場化や医療保険の空洞化や雇用条件の切り下げや第一次産業の再編を求めているなら、仮にそれによって国民の一部が一時的にその健康や安全や生存を脅かされることがあるとしても、それはもう自己責任で受け止めてもらうしかないだろう。彼らはそう考えている。
改憲案にはこのほかにも現行憲法との興味深い異同が見られる。
最も徴候的なのは第22条である。
「(居住、移転及び職業選択等の自由等)何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する」。これが改憲案である。
どこに興味深い点があるか一読しただけではわからない。でも、現行憲法と比べると重大な変更があることがわかる。現行憲法はこうなっている。
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
私が「興味深い」という理由がおわかりになるだろう。
その直前の「表現の自由」を定めた21条と比べると、この改定の突出ぶりがうかがえる。21条、現行憲法ではこうだ。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。」
改憲案はこれに条件を追加した。
「前項の規定に、かかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
21条に限らず、「公益及び公の秩序」を保全するためには私権は制約されるべきだというのは自民党改憲案の全体を貫流する基本原則である。それがなぜか22条だけには適用されていない。適用されていないどころかもともとあった「公共の福祉の反しない限り」という制約条件が解除されているのである。
起草委員たちはここで「居住、移転及び職業選択の自由」については、それが「公益及び公の秩序」と違背するということがありえないと思ったからこそ、この制約条件を「不要」と判断したのである。つまり、「国内外を転々とし、めまぐるしく職業を変えること」は超法規的によいことだという予断を起草委員たちは共有していたということである。
現行憲法に存在した「公共の福祉に反しない限り」を削除して、私権を無制約にした箇所は改憲案22条だけである。この何ということもない一条に改憲案のイデオロギーははしなくも集約的に表現されている。機動性の高い個体は、その自己利益追求行動において、国民国家からいかなる制約も受けるべきではない。これが自民党改憲案において突出しているイデオロギー的徴候である。
日時: 2013年05月08日 07:46
改憲案の「新しさ」 (1) http://blogs.yahoo.co.jp/tkkhkkdmk/32074946.html
改憲案の「新しさ」 (3) http://blogs.yahoo.co.jp/tkkhkkdmk/32074999.html
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